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■「明日の神話」とは?
原爆をモチーフにした岡本太郎画伯の巨大壁画「明日の神話」。メキシコの実業家からの製作依頼を受け、1968年から69年にかけて幾度も現地を訪れながら完成させた力作でしたが依頼主の経営状態が悪化したため本来設置されるべき新築ホテルのロビーに飾られることなく、未完のホテル共々放置され、各地の保管先を
転々とするうちに行方が分からなくなってしまいました。
2003年9月、その行方不明の巨大壁画「明日の神話」がメキシコシティ郊外で見つかり、当時岡本太郎記念館館長だった故岡本敏子さんが現地を訪れその存在が確認されました。
当時の保存環境は劣悪で画面の損傷が著しかったために日本へ送られ、愛媛県東温市で修復され、このたびその作業を終えました。
今後は8月に東京・汐留で一般公開され、その後展示保管先を探している状態です。
■なぜ長崎で?
「被爆の中から立ち上がり、誇りを持って乗り越えよ!!」
岡本画伯の魂がほとばしる「命、希望、未来」という強烈なメッセージ。岡本画伯の熱い思いが画面に爆発するようなエネルギーに満ち溢れています。
「1)物理的な観覧環境と 2)作品がそこにある意義が直接的に了解できる物語があり、3)未来永劫大切にしてくれる。 この3つの条件を満たす場所に無料提供したい」と語る「明日の神話」再生プロジェクトの平野暁臣ゼネラルプロデューサー。
「被爆地ナガサキを“明日の神話” の永住地に」壁画から発せられる膨大なエネルギーとメッセージを受け止めるため、わたくしたちTAROの夢が長崎で甦る「明日の神話」もってこいプロジェクト長崎誘致連絡協議会は署名活動をはじめ、広報活動・イベントと様々な面での誘致活動を行っています。
■「明日の神話」詳細情報
1967年メキシコオリンピックのために建設中の高層ホテルの企業家から依頼され「明日の神話」が製作されました。
反戦、反核をテーマに社会とのかかわりを描いたこの作品は岡本ワールドの最大、最高の作品といわれ、一芸術家として現代社会に対して強烈なメッセージを発しました。
これは岡本画伯自身の戦争体験が大きく影響し、戦後の過激な芸術活動のプロセスから生まれたものです。特に原爆という惨劇に直面しながらそれを乗り越えて
生き抜いてきた人間の姿、たくましく生きるエネルギーと人間普遍の存在を見事に表現し、さらには現代人に対する生き方への道しるべであり「明日」という「未来」
に繋がる「現代」を問いかけています。
1969年に壁画完成。しかしホテルが建設中止へと追い込まれ、以後長い間行方不明になっていました。
岡本画伯の養女・敏子さんの執念とも思える捜索で2003年、30数年ぶりにメキシコで発見されました。2005年5月、作品を日本に持ち帰り修復、展示公開を目指す糸井重里氏をはじめ様々な方々によるプロジェクト「太郎の船団」(東京)が結成されました。しかし敏子さんは、作品の日本到着を待たず、2005年4月に突然他界してしまいました。
その後平野暁臣(「明日の神話」再生プロジェクトゼネラルプロデューサー)が後を引継ぎ、修復が完成しました。
■岡本画伯と長崎
岡本太郎画伯は数度長崎を訪れています。初来崎は1957年、46歳の時。「芸術新潮」連載の「芸術風土記」の取材でした。
その印象を「だが何という乱雑さだろう。 まず目に付いたのは、原爆に一掃された後にゴチャゴチャと建てられた、小さい板屋の群れだった。極端に小さい、そしてすべての形式を見失った、東京の場末を一層みじめ
にしたような風景である」と書きとどめています。
長崎の街は、岡本画伯の言うそのみじめな風景から見事に復興を遂げました。最初に印象とその後訪れて見聞した長崎の思い出が「明日の神話」の製作過程で生かされたのは間違いないでしょう。
1967年、春にも来訪。ユネスコ創立20周年九州大会(長崎ユネスコ協会主催)の講演会で「世界の中の日本」と題してユーモアたっぷりに講演。
この時が縁で長崎の洋館を40年にわたり撮り続けた写真家・小林勝さんが1993年に出版した「長崎・明治洋館」の写真集に岡本画伯は「日本と西洋とのぶつかりあうユニークな接点。長崎というこのポイントでのかけがいえのない定点観測だ(略)一軒一軒の生活感がぞくぞくするほど嬉しい」とメッセージを寄せられています。
TV番組のレポーターとして「おくんち」見物も体験してます。あいにくの雨でお下りは流れましたが、「雨が降ったからといってお祭りをしないのはおかしい。お祭り騒ぎと言うくらいだから意気を示さなければ」と言うだけ言って立ち去ったとか、岡本画伯らしいエピソードが残っています。
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